2012年4月28日土曜日

日本における囲碁人気の全盛期はいつだったと思いますか?

日本における囲碁人気の全盛期はいつだったと思いますか?







やはり大正末期から昭和初期にかけての、日本囲碁界大改革期の時ではないでしょうか。関東大震災後、日本棋院の設立後は棋界の活性および躍動期として多くの棋戦が行われています。院社対抗戦の秀哉雁金戦を始めとして、呉清源の来日、そして新布石の台頭など、この時期は相当な囲碁ブームであったと思われます。院社対抗戦では主催の読売の発行部数が三倍に増えたといいますし、(大手合での)新布石隆盛時に発刊された呉・木谷・安永共著『新布石法』は行列ができるほどの爆発的な販売で、傾きかけた平凡社を立て直したとも言われています。当時は碁を知らない人たちも呉清源や木谷実の対局などに躍起になって話題にしたといいます。韓国の囲碁ブームの時に、囲碁の知らない人にも活躍した棋士の名前が知れ渡ったり、世界戦で凱旋した棋士を空港に出迎えるなどとよく似ていますが、日本でも碁の知らない人たちが囲碁界を注目するなど戦前しかなく、こういう時代があったことを考えてみれば、その後の時代の囲碁ブームといっても、知れたものです。








やはり、天才が一度に何人も登場した、昭和50年代かと思います。

大竹英雄、林海峰、武宮正樹、石田芳夫、加藤正夫、高川格、など。



ちょうど、将棋で言う、羽生善治、佐藤康光、森内俊之、先崎学、などと同じ感じ。





ただ、再び、井山裕太という「超」が付くほどの天才棋士が現れたので、まだまだ、これからが全盛期かと思います。





※韓国では、国語・算数・囲碁と、学校の教科にあり、中国では、国家事業に掲げているのは、ご存知かと思います。

そんな国の棋士に、勝ってしまうのですから・・・。







昭和50年代前半、ヒカルの碁のようなキッカケがあるわけでもなく、若年層、子供たちに囲碁が奨励されて競技人口が爆発的に増えた時季があります。

ヒカルの碁など比べ物にならない、また純粋に碁そのものに興味をもち広がった時代で、競技人口的にも全盛期だろうと思います。

囲碁愛好家、公称1000万人。棋道・囲碁クラブ(碁ワールドの前身の雑誌)発行40万部。

週間碁の創刊。全国少年少女大会の発足。世界アマチュア選手権の発足。

どれも、昭和50年代半ばのことであり、文部省でも囲碁の奨励。

関東の大学囲碁リーグでは、8部リーグまであり、参加校数70校という、空前絶後の時代でした。



ヒカ碁が最大だなんて、甘い甘い



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こういう囲碁史に係わる話になった場合、ファクトじゃない伝聞、坐陰談叢などの伝記的な話と、それをまるで事実であるかのように文章を焼き直し、書籍等で事実のように書いてしまうと、読んだ愛好家が純粋に信じてしまうことってあるのでしょうね。

黙っていてもいいんですが、やはり老婆心ながら書いてしまいます。余計なことでしょうが。



日本棋院の設立は、江戸時代の幕府と言う最大の後ろ盾を失った後、衰退を続けている棋士たちが、いつまでも本因坊家だ、方円社だ、と勢力争いを続けて、後援者を失い、このままバラバラでは棋士の存亡にかかわる、団結する必要性を感じ、有力な後援者、男爵大倉喜七郎の後援と、関東大震災による経済的なきっかけがあって、ひとつになったもので、正直なところ、食いつめ者が肩を寄せ合い、苦労を共に乗り切るための集団であり、日本棋院ができたからと言って、新しい囲碁愛好家が爆発的に増えたわけではありません。

棋戦は増え、対局料収入の道はできましたが、段割りで払われる対局料は、秀哉を先頭に高段者が大半を受け取り、低段者などすずめの涙ていど、全体には長老優遇に多くの不満があったのです。

また、旧態依然とした段割りなどの長老優遇に不満を持ち脱退棋士がでたり、棋士の地位も立場も安定もしていないのに、囲碁ブームなどあったものではありません。

秀哉雁金を緒戦とする院社対抗戦は、読売の販売戦略に煽られたもので、世間の碁を知らない人にまで注目を浴びたなど、読売と、囲碁関係の資料の他にはみあたりません。それほど、囲碁に興味のない世間にまで知れ渡った話ではないのです。

また、「読売が部数を3倍に伸ばした」ということだけを見ると凄いような気がしますが、元々三流新聞が、朝日毎日の足元に漸く近づいたくらいのことです。

安永の新布石法がつぶれかけた平凡社を建て直したなど、まったくありえないことで、同社の営業史からも明らかなように、平凡社はその基幹事業である大百科事典の完成、販売により、会社を立派に立て直したことが事実であり、たまたまその直前に新布石法の出版と好調な売れ行きがあったので、囲碁関係者が平凡社の発展に寄与したと言っているだけです。

そもそも、昭和初期に囲碁ブームなんて、あったのかいな?というのが正直な感想です。

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と、そこまで書く以上、何を以て囲碁ブームと呼ぶかを考えると、ファンと呼ぶべき競技人口の数と、棋士を職業として志す夢をどのくらいの人がもてるか、が基準になるのではないでしょうか。

すると、

贔屓目の公称とはいえ、総人口の1割が趣味として囲碁を挙げているレジャー白書があり、棋士を目指す院生が百数十名、地方出身の院生希望者のために宿泊研修施設まで建設した時代。

そのS50年代を超えるような盛況というのは、あまりおもいつきません。



余談、暴言お許し願います。







囲碁ブームのピークは平成14年である。当時はヒカルの碁が大ヒットし、女も子供も猫も杓子も碁を始めた。梅沢女流プロのようなアイドル的な棋士も現れ、初心者向けの講座も大人気であった。とは言っても、女子供には碁のルールは難しく、特にいつ終局になるのかがわからないという事態が多発した。アニメを見て始めた者は、せいぜい基本ルールを覚えるだけで、定石や戦法を覚えることはなかった。囲碁ブームに乗っかって自分も一応碁石をルールに基づいて置くことができるというだけで満足だったようである。

この為、大会では審判員を増員し、初級者の対局における終局と勝者の判定をすることとなった。囲碁では初級者同士の対局の場合、終局なのか?どちらが勝ちなのか?がお互いにわからないため、審判が判定を下さない限り永久に対局が続くことも珍しくない。

10年一昔、栄枯盛衰とはよく言ったもので、現在では囲碁ブームが起こったことなど信じられないほど、競技人口はひたすら減り続けている。

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